日本全国にある八景の中でも、近江八景と並んで有名なのが「金沢八景」です。
金沢八景は、近江八景をまねて作られたとも言われています。
先日、金沢文庫を紹介しましたが、金沢八景は金沢文庫とも関係があります。
金沢八景の名前は「能見堂」という場所から見た景色のことで、その金沢八景の一つが金沢文庫がある称名寺の晩鐘です。
金沢八景と金沢文庫は金沢区という場所にあり、金沢八景は昔から風光明媚な場所として知られています。
金沢八景とは
現在、金沢八景といった場合、横浜市金沢区にある金沢八景駅周辺を指すのが一般的です。
金沢という地名は鎌倉時代から知られており、金沢は執権北条氏の重鎮(金沢北条氏)が治めていたことで知られています。
金沢の地は、朝比奈切通(きりどおし)を越えれば鎌倉なので、金沢北条氏が金沢を治めることは、鎌倉で変事があった場合にすぐに兵を送り込むことができることを意味しています。また、金沢の湊(みなと)は房総半島と鎌倉をつなぐ重要な拠点でした。このように金沢の地は、鎌倉幕府にとって軍事的・商業的に重要な場所でした。
金沢で作られた塩は鎌倉に送られていたので、金沢と鎌倉を結ぶ道は塩の道と呼ばれたそうです。
今は六浦という駅と町がありますが、昔は金沢を六浦(むつら)と呼んでいたようです。
「金沢八景と能見堂」昔の金沢は、内海が当地の下まで入り込んでおり、ここ能見堂からの眺めは素晴らしかった。
東方には房総の山並みから江戸湾、湾に浮かぶ島々、平潟湾、南方には三浦半島の山々、そして、西方には霊峰・富士までが一望できたのである。
平安時代初期の宮廷絵師・巨勢金岡がここから金沢の景勝を描こうとしたが、内海の干満で時々刻々と変化する絶景に筆が進まず、ついに絵筆を松の根元に投げ捨てたとの言い伝えに因む「筆捨松」の伝説も残っている。
江戸時代の元禄の頃、中国出身の亡命僧・心越禅師がこの地を訪れ、ここからの風景が瀟湘八景に似ていたことから、「小泉夜雨・瀬戸秋月・洲崎晴嵐・内川暮雪・平潟落雁・野島夕照・乙舳帰帆・称名晩鐘」と題した金沢八景の漢詩を詠んだ。これが現在、我々が知る金沢八景の起こりといわれている。
この頃の金沢の地は鎌倉・江ノ島と一体となった観光地であった。そして、歌川(安藤)広重をはじめとする多くの絵師や文人墨客により「景勝地・金沢八景」が紹介され、多くの旅人で賑わった。また、このハイキングコースの一部は、当時、保土ヶ谷宿から金沢への主要道(金沢道)であった。
案内によると、昔の金沢は内海が当地の下まで入り込んでおり、ここ能見堂からの眺めは素晴らしかったそうです。
現在の海側が埋め立てによってできた土地ということは結構知られていますが、能見堂近くまで海が入り組んでいたようです。
図書館にあった郷土資料には、富岡から野島まで陸伝いに行き来できなかったとありました。工場地帯側だけでなく、今の金沢の多くは埋め立てによってできたようです。
この地からは、東方の平潟湾より向こうの房総半島、南には三浦半島の山々、そして、西には富士山を見ることが出来たそうです。現在は、埋め立てによって面影がなく、何より視界も良くありません。
近くの筆捨松は、平安時代初期の宮廷絵師・巨勢金岡がこの地から金沢の画を描こうとしたところ、あまりの絶景に筆が進まず、ついには筆を投げ捨てた話に因みます。
江戸時代に入ると、瀟湘八景にならって日本各地に八景が作られました。
金沢八景を観光地として決定づけたのは、中国出身の心越禅師が中国の瀟湘八景になぞらえた漢詩を詠んだことからです。
この時の八景が「小泉夜雨(こずみのやう)、瀬戸秋月(せとのしゅうげつ)、洲崎晴嵐(すさきのせいらん)、内川暮雪(うちかわのぼせつ)、平潟落雁(ひらがたのらくがん)、野島夕照(のじまのせきしょう)、乙艫帰帆(おっとものきはん)、称名晩鐘(しょうみょうじばんしょう)」です。
観光地として有名になった金沢八景ですが、有名な画家の歌川広重も金沢八景を訪れて作品を残しています。
武陽金澤八景略図
能見堂跡地まで
今回は能見台に用事があったついでに寄りました。
能見堂跡地へ行くルートは複数ありますが、能見台不動池がある側から行きました。
池の前には休憩できるイスがあります。
鳥の親子が池で泳いで長閑な雰囲気です。周辺は閑静な住宅街です。
能見堂跡の案内があるので分かりやすいです。
緑地入口付近に周辺のハイキングコースが紹介されてました。この周辺は横浜とは思えない自然を満喫できるのも魅力です。
金沢区は横浜市では自然が多いエリアだと思って調べてみたら、それほどでもありませんでした。
金沢区より自然が多いエリア
- 緑区
- 旭区
- 戸塚区
- 栄区
- 瀬谷区
10年前は保土ヶ谷区、青葉区、都筑区の方が緑が多かったのですが、開発で自然が減少して逆転しました。
案内の通りに能見堂跡地に向かうと、こんな感じの道になります。
池から歩いて5分くらいもあれば能見堂跡地に着きます。
「横浜市地域史跡 能見堂跡」
能見堂跡
能見堂跡地の周辺に石碑や案内板が何個かあります。
能見堂跡についての案内です。
『この場所には、明治初め頃まで「擲筆山地蔵院」という寺院があり、能見堂と呼ばれていました。
「能見堂」の名が出てくる一番古い資料は室町時代の文明十八年(1486)『梅花無尽蔵』で、これに「能見堂」の名が出てくるので、この時代には能見堂があった事がわかります。古くは、能見堂、のっけん堂、能化堂などとも呼ばれていました。
しかし、始まりがいつかは不明で江戸時代に書かれた「能見堂縁起」では、平安時代藤原道長が結んだ草庵を始まりとしています。
なぜ能見堂の名がついたのかと言うと、よく見える(能くみえる)からとか、巨勢金岡という絵師がこの景色を描こうとしたが、あまりの美しさと潮の満ち干の変化のため描けず、筆を捨てのけぞったから(のけ堂)とか、地蔵を本尊とするため六道能化の意味から取ったからなど、その他いろいろな説があります。
能見堂は、初めは小さな辻堂でした。また、それさえも無い時代がありました。それを、江戸時代の寛文年間になってこの地を領地とした久世大和守広之が、江戸増上寺の廃院であった地蔵院をここに移して再建し、寺院としての能見堂の歴史が始まります。
交通の要所でもあった能見堂は、眺望がすばらしかったので、その景色を中国の「瀟湘八景」に当てはめて、古くから人々は、「金沢八景」と呼んでいました。その事が、慶長十九年(1614)に書かれた『順礼物語』という本に出てきます。徳川家康もこの景色を愛し、江戸城の襖絵にもここからの景色が描かれています。その後、心越禅師が能見堂に来て「金沢八景」の漢詩を詠んだ事で有名になりました。
多くの文人墨客たちもこの地を訪れるようになり、それを紀行文や詩、歌などに残し、絵師たちはここからの絵を描きました。……続く。』
「金澤八景根元地 能見堂」の碑があります。どうやらこの場所から見た景色が金沢八景になったようです。
跡地の周辺には、広場があるだけでした。周りを見渡しても木が邪魔で何も見えません。
とりあえず全面が開けてる場所がないか探しました。
現在は、埋め立てと開発で当時の面影はほとんど残っていませんでした。
近くに明治時代の頃の金沢八景の写真がありましたが、この頃はまだ面影があったようです。写真から湾が入りぐんでるのが分かります。
能見堂にある碑についての解説です。金澤八景根元地碑が江戸時代のものというのに驚きました。
現在の金沢八景
金沢八景の八景が何なのか分かりましたが、現在は面影を残していない場所も多く、場所がどこか分からないものもあります。
「小泉夜雨」は、手子神社の周辺のようです。そういえば、手子神社の近くに小泉住宅(こずみじゅうたく)と呼ばれている住宅地があります。
「手子神社」
「手子神社由緒」に小泉夜雨の名前が出てます。
「瀬戸秋月」は、瀬戸神社周辺からの月を見たものです。
琵琶島の案内に瀬戸秋月の文字があります。
「洲崎晴嵐」は、はっきりとした場所が分かりませんが、洲崎という場所はあります。
写真は洲崎神社になります。
「内川暮雪」も今ではハッキリとは分からないようですが、関東学院の前の川辺りがそうじゃないかという説があります。
写真は、内川橋の上から撮ったものです。
「平潟落雁」もハッキリとした場所は定かではありませんが、金沢八景駅の前の湾が平潟湾になります。
写真は平潟町側から撮ったものです。
「野島夕照」は、野島の夕焼けのことです。
野島の展望台近くには、かながわの景勝50選の碑があり、かなざわの景勝では「野島の夕映え」として紹介されています。場所は違うかもしれませんが、ここからの眺めはなかなかです。
平潟湾と野島です。
野島から見た平潟湾の夕照です。
「乙艫帰帆」も今は埋め立てによってどこか不明です。一説によると海の公園からもっと入った場所らしいです。
写真は、海の公園から撮った八景島方面です。
「称名晩鐘」というのは、称名寺から聞こえる夕暮れの鐘の音です。
写真は、称名寺の鐘楼です。
終わりに
金沢八景は今でも海が近いことから美しい景色が見れますが、能見堂から見た景色はたいしたことなかったです。
ただ、今でも金沢には歴史を感じさせる史跡が多く残っていることが分かりました。
大鳥圭介、三条実美、伊藤博文といった有名人も金沢に別荘を持っています。
野島(乙艫町)には伊藤博文の別荘があり、別荘の近くにあった料亭で大日本帝国の憲法の草案が作られたと言われています。
大日本帝国憲法草案の碑もあります。
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