鎌倉方面に仕事の用事があったので、源頼朝の墓に寄りました。
頼朝の墓は、日本の歴史上で最も有名な人物の一人にしては意外に地味なお墓でした。
頼朝の墓がある周辺には、他の歴史上の人物のお墓もあります。
頼朝の墓から数十m東に進むと、大江広元、北条義時、島津忠久といった鎌倉に縁がある人物の墓(供養塔)の入り口があります。
鎌倉幕府を開いた源頼朝の墓
源頼朝が鎌倉幕府を開いた人物であることは誰でも知ってると思いますが、頼朝の墓の場所となると知らない人の方が多いかもしれません。
鶴岡八幡宮にあると思ってる人もいますが、頼朝の墓は少し違う場所にあります。
鶴岡八幡宮を金沢(横浜市)方面に進んで行くと、「岐れ路」という交差点に出るので、その岐れ路まで行かず手前を左に曲がり、真直ぐ進んだ先に頼朝の墓はあります。
突き当りまで行くと公園と白旗神社が見えてきます。白旗神社の前の階段を登った先に頼朝の墓(供養塔)があります。
源頼朝は、治承四年(1180)平家打倒のため挙兵、鎌倉を本拠として元暦二年(1185)に平家を滅ぼしました。また、鎌倉幕府を大蔵(現在の雪ノ下三丁目付近)に開いて武家政治の基礎を築きました。
正治元年(1199)に五十三歳で没すると、自身の持仏堂であった法華寺に葬られ、法華堂は頼朝の墓所として厚く信仰されました。法華堂は後に廃絶しましたが、この丘の上一帯がその跡です。
現在建っている塔は、後に島津藩主・島津重豪が整備したものとされます。
鎌倉政治の中心
大倉幕府→宇都宮辻子幕府→若宮大路幕府
頼朝が没した後も鎌倉は政治の中心でしたが、1333年に新田義貞に攻められて幕府は滅びました。以後、政治の中心は京都に移りましたが、寺院や史跡が多いことからその後も古都として栄えました。
頼朝の墓の隣にある白旗神社です。祭神は源頼朝です。
白旗は源氏の旗です。西洋では白旗は降伏を意味することを知って、幕末の日本人が驚いた話があります。
白旗神社前の階段を登ると頼朝の墓があります。
訪れてみると日本人よりも外国人が多いようでした。
欧米でも日本の歴史に興味を持つ人が増えており、実は頼朝は海外でも人気です。
頼朝の墓のアクセス
所在地 | 鎌倉市西御門2丁目5 |
アクセス | JR鎌倉駅から徒歩20分 |
駐車場・駐輪場なし
いつも自転車で行くので、入口手前の空いたスペースに置いてます。
法華寺跡と北条義時
頼朝の墓の前の道をさらに100mほど進むと、大江広元や島津忠久の墓入り口があります。
大江広元は、鎌倉幕府創設に尽力した人物で公文所初代別当を任されています。広元の四男は政争に巻き込まれますが、子孫は生き残って毛利氏として存続しました。
毛利氏は、戦国時代に中国地方最大の戦国大名になった毛利元就を輩出しました。
島津忠久は、薩摩の島津氏の先祖にあたる人物です。頼朝の側室の子という説もあります。
(大江広元・島津忠久の墓、法華寺跡入口)
階段を上がると空き地に出ます。どうやらここに法華寺があったようです。
(法華寺跡)
かつてはここに頼朝と北条義時の墓があったと伝わってます。
現地に義時の墓はありませんが、案内板が設置されてます。
この平場は、鎌倉幕府第2代執権の北条義時(ほうじょうよしとき)の法華堂(墳墓堂)が建っていた跡です。
承久3年(1221年)の承久の乱においては、後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)方を破り、これ以降、鎌倉幕府は全国的な政権としてより強固なものとなりました。
義時は貞応3年(1224年)に62歳で没しました。「吾妻鏡(あずまかがみ)」には、源の頼朝の法華堂の東の山を墳墓の地とし、そこに新法華堂(北条義時の法華堂)を立てたことが記されています。
北条義時の法華堂は鎌倉時代の終わりには途絶えたようですが、平成17年(2005年)に行われた発掘調査により、8,4メートル四方の平面正方形の建物跡が確認され「吾妻鏡」の記述が裏付けられました。
左には三浦家のやぐらがあります。
三浦一族は、平安時代から三浦半島を治めていた武家です。頼朝の挙兵にもいち早く参加し、鎌倉創設期の幕府にも大きな影響力がありました。
北条氏にとっては目の上の瘤のような存在でしたが、宝治合戦で滅亡しました。三浦一族は影響力を失いましたが、各地に散らばって有力な武家として生き残りました。
三浦氏の子孫
- 相模三浦氏→後北条氏により滅亡
- 正木氏→里見氏の有力家臣
- 蘆名氏→蘆名盛氏
- 他多数
大江広元・季光・島津忠久の墓(供養塔)
法華堂跡の階段をさらに昇った先にも墓があります。注意点として、この階段は急で滑りやすいです。学生の頃にレポートのために訪れた時は、雨上がりで足元が悪く、滑って膝を打撲しました。
階段を登った先にやぐらが3つあります。間に碑もあります。
大江広元の墓
大江広元は、頼朝によって招かれて側近になった人物です。
頼朝の配下には教養のある人物が少なかったので、京との折衝で重宝されました。
官位も将軍に次ぐ高い位を与えられ、鎌倉幕府でも公文所の初代別当を任されました。頼朝死後も北条氏から一目置かれる存在でした。
相模の毛利荘を与えられ、子孫の一人である毛利元就は中国地方最大の戦国大名になりました。
大江季光の墓
大江季光は、大江広元の四男です。
季光は武功により安芸吉田の地頭になりました。しかし、北条氏と三浦氏が争った宝治合戦で三浦方についたため、三浦方が敗れた時に季光も自刃しました。
一族は季光とともに滅びましたが、四男の経光が生き残りました。生き残った一人が安芸の吉田に住み、毛利氏として続きました。
安芸の吉田は毛利元就の吉田郡山城があった場所です。元就は吉田郡山城を拠点に中国地方の覇者となりました。
島津忠久の墓
島津忠久は、後に薩摩の戦国大名となる島津家の祖にあたる人物です。
島津忠久の母は頼朝の側室ともいわれ、頼朝の隠し子説があります。言い伝えレベルの話も多く、あまり出自がハッキリしてないようです。
村田清風の碑
法華堂跡の階段下に長州藩士・村田清風の碑があります。
村田清風は小姓として幕末の長州毛利家に仕えましたが、やがて家老として藩の舵取りをしました。
なぜここの村田清風の碑があるかというと、毛利氏の先祖である大江広元と季光の墓を清風が整備したからです。
まとめ
・源頼朝の墓は鶴岡八幡宮にない(大倉幕府に近い)
・頼朝の墓の近くに法華堂跡がある
・法華堂に頼朝と北条義時(得宗)の墓があったと伝わる
・法華寺跡のさらに上に大江広元・季光、島津忠久の墓がある
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